パラリンピックの北京大会で金メダル2個、ロンドン大会で銀メダル3個に輝いて競技を離れた陸上競技の車いすスプリンター・伊藤智也選手(54)が今夏、現役復帰を発表した。気鋭の工業デザイン工房「RDS」(埼玉県寄居町)と「チーム伊藤」を結成し、現在は体やフォームにぴったり合った特製の専用車いすを開発中だ。「57歳で迎える2020年東京大会で金メダルを」。少年のように真っすぐなスポーツへの情熱を胸に、熟年ロマンを追い求める。(読売新聞メディア局編集部・込山駿)
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復帰した鉄人「ワクワクする」
頭髪には白いものが目立つ。日焼けした顔に、深いしわ。しかし――。
分厚い胸板、たくましい上腕、何よりも精気のみなぎる眼光は、まぎれもなく現役トップアスリートのものだ。「車いすの鉄人」はニカッと笑い、よく通る声で語る。
「自分のスキル(技術)と長い競技経験を組み込んだマシンで、チーム一丸となってレースに臨める。市販のマシンでがむしゃらに速さを求めていた引退前とは、全く異質な競技生活になる。こんな取り組みをしているほかの車いすレースの選手を、僕は知らない。ものすごいワクワク感がある」
先端技術の高速化プロジェクト、着々と
11月9日、RDS本社の工房2階。技術者、デザイナー、データ解析者ら精鋭5人によるチーム伊藤が発足してから、3度目となる研究開発ミーティングが開かれた。この日の主な目的は、車いすレーサーたちが車輪を力強くつかんで回すために装着するグラブの「伊藤選手専用モデル」の試作品を使ってみることにあった。
伊藤選手は、三重県鈴鹿市の自宅から愛妻・奈美子さん(40)とともに足を運び、屋内練習機のシートに着いた。肩、肘、手首などにセンサーをつけ、前傾姿勢でマシンをこぐ。そのフォームを多方向からカメラが撮影し、パソコンを介してスクリーン上に映し出す動作解析も実施した。
新しいグラブは、グリップがナイロン製で、車輪と接する部分にゴムが貼ってある。チームのデザイナーが、伊藤選手の手形をとり、3Dスキャナーを駆使して作った。ゴムは、衝撃吸収性の高い特殊な素材を使用している。
伊藤選手はこれまで、溶けた高熱のプラスチック樹脂を手にかけて型をとり、どこででも手に入るゴムを貼った手作り品を愛用してきた。「両手に大やけどをしないで、フィット感のあるグラブができるだけでも、大助かり」と言いつつ、真新しいグラブを装着した。
特製グラブ「めっちゃエエわ」
使用後は、驚きの声を上げた。「このグラブ、めっちゃエエわ。ゴムが車輪をつかむ力が全然違うから、楽にスピードが出る。時速約12キロの感覚でこいでいる時に(練習機の速度表示で)15キロも出た」。17キロを超えたところで手がすべるミスが出やすいという課題も見つかったものの、グリップの形状を微修正したりゴムの面積を変えたりすれば、解決できる見通しが立った。その場で動作解析ができるから、不具合の原因究明もスピーディーだ。
チームは今後、月に1回ほどのペースでRDS社や埼玉県内の競技場などに集まり、グラブだけでなく、空気抵抗が少なくて軽量な車体などの開発も進める。来年の夏頃には、伊藤選手専用の新たなレース用車いすが完成する予定という。
車いすレースでは未曽有の高速化が期待できるプロジェクト。今、着々と前進している。
F1感覚の共闘 1年前の出会いが端緒
RDS社は、レーシングカー、バイク、ロボット、ドライカーボン製の松葉づえなど、様々な分野の工業製品を手掛けてきた。社員は約30人で、寄居にある工房のほか、東京・千駄ヶ谷に事務所を置く。最先端の技術を駆使し、企画からデザイン、製作までの全工程を自社内で完結させられる機動力と実行力が身上だ。
伊藤選手との結びつきは、約1年前に端を発する。
専務の杉原行里あんりさん(35)が2016年10月、スイスで開かれた障害者スポーツの国際大会に出張。この大会に、和歌山大学チームの関係者として足を運んでいた伊藤選手と遭遇した。「引退した金メダリスト、ということだった。でも、僕の目にはバリバリの現役選手にしか見えなかった」。障害者スキーの器具製作でトップアスリートを支援してきた杉原さんは、初対面でそんな印象を受けたという。
F1感覚の共闘 1年前の出会いが端緒
帰国して間もなく、東京・新宿の焼き肉店で再会した伊藤選手に、杉原さんは持ちかけた。「僕らが最高のマシンを作りますから、また走ってくれませんか。一緒に、東京パラの金メダルを目指しましょうよ」と。その時点で、2人は完全に意気投合したという。RDS社の設けたウェブメディア(HERO X)で今年8月に復帰宣言を出す約10か月前から、車いすの鉄人の現役復帰には道筋がついていたことになる。
杉原さんは「人の能力だけでなく、器具の性能との融合で勝負が決まるのが、パラ競技の面白さ」だと考えている。「レーサーとメカニックが共闘するF1レースのワークスチームみたいな感覚が、僕ら『チーム伊藤』にはある。F1で導入されて実績を残した先端技術は、自動車を始めとする様々な分野に普及し、ビジネスとして実を結んでいる。それと同じことを、僕らはパラリンピックで実現したい」。そんな野心を抱きつつ、チーム伊藤を率いている。
難病の症状安定、タイムも向上
「素晴らしい出会いに恵まれた。RDS社に感謝したい」と、伊藤選手はしみじみ語る。
49歳で2012年のパラリンピック・ロンドン大会に出場した頃、伊藤選手の体は悲鳴をあげていた。15年間苦しめられてきた中枢神経が侵される難病「多発性硬化症」が悪化。大会の1年前には「銃で撃たれたような腰の痛み」に気を失って入院し、ロンドンへたつ前にも左手に強いしびれを感じた。医師の強い勧めもあって、ロンドンで勝ち取った3個の銀メダルを花道に引退。治療に力を入れるとともに、競技指導や講演活動などを手掛けるセカンドキャリアを歩んでいた。
だが、車いすスポーツで鍛え抜いた体には、底知れぬ生命力が培われていたらしい。休養期間で、病状は安定。医療技術の進歩もあって、杉原さんと出会った昨年秋頃までには、薬で病の進行を抑えられるめども立っていた。またスポーツをできそうだと感じ始めていた心に、杉原さんが火をつけた。
練習を再開してみると、体調が悪かった40歳代後半よりも、50歳代の半ばになった今の方が、むしろ体力が上向いていると実感できた。100メートルのタイムを計ってみると、ロンドン大会当時の自身より0.5秒も速く、出場しなかった2016年リオデジャネイロ大会に当てはめると銀メダル相当だった。「いけるぞ」という、確かな手応えを感じている。
ライバルはBMW 追い求める打倒のロマン
リオ大会では、自動車大手のBMW社が製造した車いすを使用したアスリートが、複数種目で金メダルを獲得した。同社は今、米国代表チームとの連携を深め、マシン開発にいっそう力を入れているとも伝えられる。
世界に冠たる巨大企業とスポーツ大国のコンビに、東京大会では一泡吹かせてやろうじゃないか――。そんな意欲も、チーム伊藤のエネルギー源になっている。「僕たちのマシンに乗った金メダリストが、ヘルメットを脱いだら白髪頭。想像しただけでも、面白くないですか」と、杉原さんはいたずらっぽく笑う。
傍らで、車いすの鉄人が言い切った。「少数精鋭のチームでBMWを打ち破る。この圧倒的なロマンを追い求めた先に、金メダルがある」
プロフィール
伊藤 智也(いとう・ともや)1963年8月16日、三重県鈴鹿市出身。人材派遣会社の経営者だった34歳の時、多発性硬化症にかかり、下半身まひや左目の視力などに障害が残って車いす生活になった。1999年に始めた陸上競技でトップアスリートに。パラリンピックは、2004年アテネ大会が初出場。08年北京大会の400メートルと800メートルで金メダル、12年ロンドン大会の200、400、800メートルで銀メダルを獲得した。12年9月に現役を一時引退、17年6月に復帰した。
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