2018年12月26日
2020年東京に向けて、オリンピック、パラリンピックの選手たちと触れ合いながら、パラスポーツなどを体験してもらうイベントが、18年12月から19年3月にかけて、全国7か所で開かれる。読売新聞社の「元気、ニッポン!」プロジェクトの一環だ。その第1弾「パラスポーツ・アスリートをもっと知ろう! in 岡山」が、12月23日、岡山市の御津(みつ)スポーツパークアリーナで行われた。会場には地元・岡山市の小学生を中心に、約100人の親子らが集まった。
主催=読売新聞社
後援=公益財団法人日本障がい者スポーツ協会日本パラリンピック委員会、岡山市
協力=公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会、NPO法人幼児教育従事者研究開発機構
この日、登場したのは、岡山市在住でパラ陸上の松永仁志選手と生馬知季(いこま・ともき)選手、そして広島県出身で陸上の木村文子(あやこ)選手の3人。松永選手は08年の北京パラリンピックから3大会連続で出場し、16年のリオではパラ陸上日本代表の主将を務めているベテランだ。生馬選手は17年ロンドンの世界パラ陸上競技選手権大会日本代表で、日本人として唯一、男子100メートル決勝進出を果たした。男子200メートル(車いすT54)で日本記録を持つトップスプリンターだ。また、木村選手は12年のロンドンオリンピック女子100メートルハードル日本代表で、17年のロンドン世界陸上では女子100メートルハードルで日本人初の準決勝進出を果たした。
まず、広島テレビの小野宏樹アナウンサーの司会で、3人のアスリートのトークショーが始まった。
競技を始めたきっかけについて、松永選手は「中学、高校と陸上をやっていて、体を動かすのが好きだった。高校2年の時、交通事故で車いす生活になったが、それでもできることはないかと考えた」と話す。陸上競技用の車いすは「レーサー」と呼ばれる特殊な3輪だが、始めた当時はまだ4輪で、車体の長さも短かったという。「でも、乗った瞬間に、普通の車いすよりはるかにスピードが出て、『あっ、スポーツをしている!』と感じました。今もそのワクワク感、ドキドキ感が根底にあって、競技を続けています」。
生馬選手について聞かれた松永選手は、「変な体形だと思いませんか」と会場に語りかけた。「あれは肉じゅばんじゃなくて本物の筋肉。上半身がすごくて、下半身が小さい。パラ陸上では大変に有利な体形。神様からのギフトです」。松永選手はコーチも兼ねていて、生馬選手を指導している。生馬選手は「最初からこうじゃなかった。松永さんの指導でトレーニングを積んで、今の体形になりました」と明かした。
パラリンピック初出場を目指す生馬選手は、17年の世界選手権ロンドン大会では本来の走りができなかったと悔やむ。他の大会とは全く違う雰囲気に、体が硬くなってしまったという。「20年はその緊張に耐えられる強い精神力をつけて臨みたい。自分の人生の中でも自国での開催は一度きりだと思う。必ず出場してメダルをとりたい」
次に、選手たちの指導によるパラスポーツとハードルの体験会が行われた。陸上競技用車いす「レーサー」に乗って、実際に走らせる体験では、松永選手と生馬選手がぴったりと後ろについてアシスト。小学5年生の藤井詩織さんも挑戦した。「前傾姿勢がすごくきつくて、上に乗って操縦している選手は大変だと思いました。初めて乗りましたが、思ったより速く進んで、面白かった」。
ハードルは木村選手が指導した。いくつも並べてまたいでいったり、下をくぐってみたり、様々なトレーニングでハードルに慣れてもらうと、子供たちはあっという間に上達。木村選手も「短い時間でどんどんうまくなって、自分も負けられないと思った」と驚くほどだった。初めてハードルを跳んだという小学1年生の日野美結(みゆう)さんは、「跳ぶのが好き。うまくできて、面白かった」と大喜びだった。
このほか、赤や青のボールを投げて、目標となる白いボールにどれだけ近づけるかを競う「ボッチャ」のミニゲームも行われた。1勝1敗の成績だったという小学5年生の山本淳登(あつと)さんは、「ボールをコントロールするのが難しい。ボッチャに興味がわいてきました」と話した。
最後は、選手たちと子供たちの直接対決。生馬選手は子供たちとレーサーで対決した。子供たちが1周する間に、生馬選手が3周する特別ルールでの勝負は、生馬選手の完敗。木村選手はハードルありで、ハードルなしの子供たちと競走し、さすがの走りで勝利した。